JUVENTUS JOURNAL 4周年企画「実況者から見たユベントス」前編
今回、ユベントス・ジャーナルでは、永田氏に実況者へとたどり着いた“道のり”やユベントス戦の初実況、そして現在のユベントスがどう映っているのかを訊きました。
【永田 実】
実況者。株式会社フットメディア所属
大学卒業後、TOKYO FMに入社。同社でアナウンサーとして活躍。
約10年間勤務するも、サッカー実況者への情熱が冷めやらず退社後、フリーアナウンサーの道へ。
現在、国内外問わず数多くの実況を担当している。
――実況者を志したきっかけを教えて下さい。
「大きく言えば『ドーハの悲劇』ですね。でも子供の頃はサッカーではなく野球をやっていて、巨人戦をテレビで観戦する野球少年でした。
年長さんから小学低学年までは喘息で学校を休みがちな少年でした。1人で家にいても、やることがなかった記憶があります」
――そういう面影は一切ありませんね(笑)
「よく言われます(苦笑)この人の実況がかっこいいから『実況者になろう』というのはなかったですね。喘息で学校を一番休んでいたのは小学1年生くらいでした。
家にいるときはNHKをよく見ていました。NHKでは現在でも『5分間ニュース』が流れますよね。
それが、不思議と凄くかっこよく映ったんですよね。『将来、俺これになろう』と思ったのはよく覚えています。
『絶対』とかじゃなくて『なんとなくの憧れ』みたいなものを持っていました。子供心に。
喘息で学校を一番休んで時期でしたし、なんとなく、その頃は『かっこいいなぁ』って思っていました。
その頃の熱意があったかどうかは分かりませんが、大学卒業後にTOKYO FMを選んでいました」
――それはドーハの悲劇と関係あったのでしょうか。
「ドーハのときは高校3年生でしたね。あのときって日本中が『初のワールドカップへ』ということもあり、国民全体が『日本代表』を応援していた記憶があります。
微文库当時は野球ばっかり見てました。それまでサッカー放送って高校サッカー選手権、天皇杯決勝、TOYOTA CUPしか放送されてなかった記憶があります。
ワールドカップの存在は知らなくとも、(ハンス)オフトさんが来て、『こりゃ行けるんじゃないか』って思っていたのを覚えています。普段見ていた野球とは全然違う興奮を覚えました。
一戦一戦の熱の入り方が違うじゃないですか。サッカーって。ましてや『日本代表』というフレーズも当時は斬新に思えたんですよね。ワールドカップの価値を知らなくても、必死で応援していました。
いわゆる『ドーハの悲劇』が起こったとき、しばらく放心状態になりました。その翌日の学校で全国一斉のセンター模試だったと思います。
僕は中高一貫の学校に通っていました。気心の知れた友だちたちが部活関係なく落胆していて『試験どころじゃないね』って話をしていました。試験の結果、皆『判定』を落としていましたね(笑)
そうなると、人をここまで魅了する『サッカーってすごいな』って思えました。
野球も好きでしたけど、サッカーの魅力というか魔力に取り憑かれた瞬間だったかもしれませんね。そこからサッカーに注目するようになりました」