JUVENTUS JOURNAL 4周年企画「実況者から見たユベントス」前編
――サッカーのどのような部分を注目していたのでしょうか。
「当時、Jリーグも開幕していましたし、ニッポン放送がラジオでよくサッカー中継をしていたんですね。昔から僕は、弱いチームを応援する傾向があるんですよ。
でもそのチームが強くなると、自分が応援しなくても大丈夫かな、という気分になってしまうというか…。野球を例にするとダイエーですね。
サッカーだと、Jリーグ開幕当時はガンバさんやレッズさんを応援していましたね。あと現在でも選手に肩入れする傾向はあります」
――大学卒業後、就職されたTOKYO FMさんにはどのような経緯で入社されたのでしょうか。
「アナウンサー試験ってあるんですよ。試験の結果、いくつかの内定を頂きました。自分の中で『サッカーの中継をやりたい』って考えが軸にありましたけど、そういう局とは不思議と縁がなかったんですよ。
あと、『東京でアナウンサーをしたい』って気持ちが当時は強かったので、TOKYO FMさんに入社を決めました。
ちょうど、僕が入社したときがフランスワールドカップのときでした。それから4年後に日韓ワールドカップがあり、そのとき“ベッカムフィーバー”が起こりましたよね。
その2大会とも、日本戦はラジオ全局で実況中継が放送されていました。他のラジオ局の実況アナウンサーさんが中継を聴きながら、「自分もこんな試合を中継したいな」とウズウズしたのを覚えています。
FOOTY FAIRその翌年、(デビッド)ベッカムがレアル・マドリーに行きましたよね?
当時、海外のビッグクラブがアジアでプレシーズンマッチに訪れていました。レアル・マドリーも同様にアジアに来て、日本で試合をする前に北京(中国)で試合を行っていました。
僕はその試合を取材させてもらいました。日本での試合は、僕が実況させてもらうことになったんです。
ずっと『やりたいやりたい』って言っていましたので、その想いが伝わったんですかね(笑)だけど、純粋に嬉しかったです。
そして、実況をさせてもらったら楽しかったんですよ。それまでもJリーグの実況を1,2試合やらせてもらってはいました。
その仕事も充分楽しかったんですけど、『世界』は何か違うように感じました」
――サッカーへの情熱が冷めていなかったわけですね。
「そうですね。それからバルセロナが来て、マンチェスター・ユナイテッドが来て、毎年夏に実況をやらせてもらってはいました。
『織姫と彦星』じゃないですけど、1年に1回でも楽しかったんですよ。
もちろん、ラジオのパーソナリティをやっているのがつまらなくなったわけではありませんでした。でも、どこか、心のどこかで『このままラジオのパーソナリティを続けるのか』『サッカーの実況者として生きていくか』で揺れていました。
たしか30歳になったときですかね。『どこかで決めなくてはいけない』と毎日のように考えていました。ラジオのパーソナリティの仕事にも楽しさを感じていましたから…。
それでも退社することに決めました。あと3ヶ月つづけていれば『勤続10年』で10万円分の旅行券がもらえたんですけどね(笑)」