コラム:ユベントスに導かれた二人のイタリア人
イタリア屈指のDFは今シーズン限りで選手生活にピリオドを打つ。プロビンチャを渡り歩いた苦労人にスポットライトが当たったのは、2006年ドイツワールドカップでのことだろう。
各年代でタイトルに恵まれたバルザーリをリッピは逃さなかった。2004年にフル代表に招集するとドイツ行きのメンバーに選出した。
グループステージこそ出番はなかったが、ベスト16・オーストラリア戦の56分、FWルカ・トーニに代わってピッチに立ち1-0の辛勝に貢献。
ベスト8ウクライナ戦では先発フル出場を果たし、3-0の大勝におおきく貢献した。
その後は出場機会こそなかったものの、イタリアに1982年大会以来となるワールドカップをもたらした一員となっている。
パレルモに戻り、戦いをつづけたのちに迎えた2008年。現在では多少増えたが、国外に戦いの場を移す。
ヴォルクスブルクで“鬼軍曹”フェリックス・マガトに鍛えられたバルザーリは、クラブ史上初となるマイスターシャーレを1945年創設の新興クラブにもたらしている。
しかし、この栄光は長くはつづかなかった。異国での生活。相次ぐ怪我。マガトの退団。徐々に出場機会を減らし、「過去の選手」のレッテルが貼られ始めようとしたとき、恩師から声がかかる。
のちに「ユベントスの暗黒期」として囁かれることになるルイジ・デル・ネーリが教え子をドイツから呼び寄せる。
誤解を恐れずに筆者の感想を述べさせていただくと「ユーベもここまで堕ちたか」と当時は思った。現在では恥じている。
メディアも「渡りに船」といったものでもなければ、「期待の新戦力」といったものでもなかった。そのことを記憶しているユベンティーニも少なくはないはずだ。
90Minしかし翌シーズン、コンテとの出会いが「バルザーリを作った」といっても過言ではない。
現在でこそ世界屈指の監督に数えられるコンテも、当時は「ユベントスの闘将」または「ミスターユベントス」程度の評価でしかなかった。
セリエBを一度制したものの監督としての能力は未知数だったが、クラブのアイデンティティと自身の“サッカー観”がビアンコネーロを復活へと導いた。
この功績は難攻不落の「BBBC」あってのもの、といっても過言ではない。バルザーリもそのことを口にしたのは先日のことである。
コンテが電撃辞任したとき、運命の出会いがユベントスの背番号「15」を待っていた。“先輩”アッレグリとの再会である。
アッレグリとバルザーリは2000年、ピストイエーゼ(当時3部)でともにプレーしている。当時33歳だったベテランは19歳の青年ジョカトーレに「ある進言」をしたのはよくしられている。
当時、MFとしてプレーしていたバルザーリに「いまのままでは3部以上でプレーできないジョカトーレで終わるぞ」と助言。そしてポジションをCBに移している。
この進言主が14年後にビアンコネーロの監督となり、進言を真摯に受け止めた青年ジョカトーレが確固たる実力を兼ね備えたイタリア屈指のDFとしてユベントスで再会したのは運命のいたずらとしか思えない。
コメント
ピルロのゴールの後すぐさまめっちゃ笑いながらロッカールームに戻ってたのはすごい覚えてる。
泣けました。
デ・ロッシのローマ最後の試合も泣けました
バルザーリもいなくなりなんだか寂しくなりますね。
僕はユベントスのファンです自分でもユベンティーニだと思っております。
ですが、カルチョが好きなのです。
だから、本当になんだか寂しく思います。
だから僕は来期を楽しみにしています
新しい監督、新しい選手、新しいカルチョを。