【特別対談】株式会社ジーク×J-JOURNAL
このたび、J-JOURNALと『株式会社ジーク』様とのパートナーシップが締結いたしました。
ジーク様は「住空間と一緒に、新しいライフスタイルを想像する」をテーマとし、2019年3月に創設20周年を迎えられます。
FC東京のクラブスポンサーを務めるなど、サッカーへ飽くなき情熱を傾ける同社の代表取締役・宮下真氏に会社の設立、今後の展望、そしてJ-JOURNALとのパートナーシップ締結までの経緯を伺いました。
――会社設立はどのような経緯で行われたのでしょうか。
「まずは、生まれ育った環境が、私自身に大きな影響を与えたと思われます。私の親族に一般的な企業に勤めるという選択をしている人間がほぼいませんでした。
歯医者さん、呉服屋さん、ケーキ屋さん、大学教授、経営者、あるいは自分で生計を立てている親戚ばかりでした。
私の父親も脱サラをしてスポーツ用品店を始めましたし、祖父は不動産の管理会社をやっていました。子どもの頃から『自分で会社をつくる』という意識が自然に芽生えていたのだと思います」
――まさに「環境が作ってくれた状況」ですね。
「ふり返れば、そうなりますね。そして、大学生のときに仲の良かった友人が在学中の頃に飲食の事業を始めており、現在では従業員数が数百人の企業になっています。
また、ときを同じくして、一番可愛がってくれた先輩が学生でありながら、アメリカのアウトドアブランドの並行輸入をし始めており、すごい勢いで成長していました」
――僕、地元にいるとき買ってましたよ(笑)
「その事業をきっかけに、今でも大成功されています!
そのような環境もあり、大学を出て『何か起業したいな』と漠然と思っていました。でも『これ!』という決め手になる事業が見つからなかったんですよね…。
世代的にも高校生のときまで野球をやっていたんですが、当時からサッカーだけは大好きでした。そして、1986年のメキシコワールドカップをTVで観て、さらにサッカーの魅力にのめり込んでいきました。
決勝戦ではアルゼンチンが西ドイツに勝利して、2度目の優勝を果たしたのですが、私が心惹かれたは西ドイツでした」
Publimetro――(ディエゴ)マラドーナ派ではなかったんですね(笑)
「はい(笑)ゲルマン魂に魅せられた“派”でした。決勝戦を0-2で『ビハインドを負いながら、同点に追いつく』あの精神に魅せられました。
当時って海外のサッカーを観るのには『(三菱)ダイヤモンドサッカー』(テレビ東京:1968〜1988、1993〜1996)しかなく、ドイツのサッカーが中心でした。そのようなこともあり、以後は西ドイツを応援するようになりました。
どんどんのめり込んでいって、大学生のときに1990年ワールドカップがあり、西ドイツが優勝しました。あの当時のドイツのサッカーが好きでした」
――誰もミスせず、全員が仕事をきっちりこなすサッカーですね。
「そうですね(笑)そのときのメンバーが、のちにJリーグにたくさん来てくれましたのも嬉しかったですね。ドイツのサッカーをよく観るようになり、そのときにスタジアムに鳴り響く『sieg(ジーク)コール』に惹かれました。
3-0くらいで勝っている展開で『ファンが地鳴りのような声援を選手たちに送る』その光景に心を打たれました。
Spiegel大学もドイツ語を必修で先行していまして、『siegってどういう意味なんだろう』と調べたら『勝利』でした。『いつか会社を作ったら、この名前で企業しよう』と思っていました。
それでもやりたいことがみつからなくて、当時「何をやって企業するか」というのはまだ不透明な状態でした。
大学を卒業して就職しなくては、と思っておりましたので、とある不動産会社に就職しましたが、起業への思いが強く、しばらくして退職しました。
短い間でしたが、当時の先輩方には現在もクライアントとしてお世話になっており、現在でもとても感謝しています」
――起業への熱意ですね。
「やはり、どうしてもサッカーの仕事がしたかったんですよね。1994年か1995年くらいですね、海外サッカーの映像を輸入する仕事を薦められました。
すごく魅力を感じていましたので、その会社の社長さんのところに転がり込みました。当時はまだ、現在ほどネットも普及していませんでしたし、南米もふくめ海外の映像がほとんど観れなかった時代でした。
欧州ではフランス、ドイツ、イングランドの版権(著作物の複製、発売の独占権)を購入して、映像を制作し、販売をしていただき、売れた分を『1本○○円』のロイヤリティとして頂く商売でした」
――そのビデオも僕が買っていた可能性大です(笑)
「本当ですか! ありがとうございます(笑)当時、南米サッカー連盟の会長のニコラス・レオス氏(1986〜2013在任)とも日本で2度程、お会いさせて頂きました。ですので、南米の映像も作らせて頂きました。
順風満帆なビジネスに思えたのですが、Jリーグが1993年に開幕したこともあり、大手企業さんが直接現地に赴き、交渉するようになってしまったんですよね。
僕らが一つの映像を購入するのに提示する額と、大手企業さんが提示する額がおよそ5倍違うわけですよ。『こりゃ太刀打ちできないな』と感じました。
そのようないきさつもあり、その仕事も辞め、色々な職を転々としました。それでもサッカーが好きでしたので、とある衛星放送のテレビ放送局に就職したのですが、4ヶ月で給料が出なくなり…(笑)」
――波瀾万丈ですね(笑)
「今でいう『ベンチャー』ですから、仕方のないことですけどね。私はその頃25歳か26歳になっていましたが、かなり職を転々としているんですよね…。本当に色々な仕事をやりました…」
――意外です。宮下さんはてっきり業務内容的にも建設業の叩き上げの職人さんが社長になられたものかと思っていました。
「いえいえ、今でも建設関係は担当者に任せています(笑)祖父の影響もあり私の『考え方』が不動産業の『頭』だったのでしょうね。逆に建設業をあまり分からなかったからこそ、現在があるんだと思っています。
お話をしていて時系列で色々ふり返りましたが、色々とまわり道をしましたが、無駄なことは一つもなかったですね」
――ここまでだと「株式会社ジーク」設立には到りませんよね。そこからどのような試行錯誤があったのでしょうか。
「テレビの仕事を辞めてから、『さぁどうしようか』ということになり、友人から『ハウスクリーニングの職人をやらないか』と誘われたんですよね。結婚もしていましたし、食べていかなければなりませんでしたから…」
――結婚していたんですか!?(笑)
「はい(笑)なので『なんでもやろう!』という意気込みでした。ハウスクリーニングの職人をやり始めて、それが現在の『株式会社ジーク』の前身になりますので、おもしろいものですよ」