コラム:コンテがユベントスにもたらした功績
かつてビアンコネーリはセリエAで2年連続7位に終わり、UEFAチャンピオンズリーグ(CL)出場権はおろか、ヨーロッパリーグ(EL)を失った時期がある。
UEFAポイントを下げ、CL枠減少の憂(う)き目にも立たされた。そんなときにユベントス再建を託された男こそアントニオ・コンテその人だった。
現役時代は「闘将」と讃えられた熱血漢は、古巣はもちろんのこと、イタリアそのものを立て直すつもりでいたはずだ。
コンテがビアンコネーリの監督に決まったとき、それを歓迎したティフォージはいったいどれくらいの数がいただろうか。
限りなく少数派だったはずだ。だが、指揮官はかつての「負けないユベントス」をチームに昇華させた。
おそらくだが、カルチョの凋落(ちょうらく)に眉をひそめ、歯ぎしりをしていたであろうその時期、日本の『フジテレビ』に次のように語っている。
「UEFAポイントを下げ、CL枠が減ったのは我々ユベントスにも責任があると感じている」とその責任感を口にした。
インタビューが行われた時期は2012年冬のことであり、あの「グランデ・ミラン」以来の無敗優勝を飾った2011/12シーズンのことである。
そこにはアンドレア・アニェッリの先見の明もあった。イタリアで初となるクラブ所有のユベントス・スタジアム(現アリアンツ・スタジアム)の建設。
その初年度から今日まで、スクデットに接近されはしたものの、他クラブにイタリア王者の座を許してはいない。
コンテに導かれたチームはGKジャンルイジ・ブッフォンの前にCB3人を並べるシステム。のちに「BBBC」と称賛されたそれだ。
アンドレア・ピルロがレジスタとしてタクトを振るい、クラウディオ・マルキージオとMFアルトゥーロ・ビダルがクリエイティブに熱く、縦横無尽に走り回る。
RWBにはステファン・リヒトシュタイナー、いずれもユベンティーニの記憶に色濃く残る面々のはずだ。
のちにコンテの代名詞ともなる3-5-2、攻撃時には3-3-4のシステムはこのときに「産声をあげた」といっても過言ではないだろう。