コラム:ユベントスの背番号10
欧州制覇にあと一歩届かなかった1985年以前の時代をすごした古くからのユベンティーノたちにとって、ミッシェル・プラティニの存在は孤高のジョカトーレそのものだったそうだ。
たとえ戦術の潮流に変化があっても、MFのポジションながらセリエAで3年連続(1983.84.85)得点王は並はずれた記録であり、その3年間でバロンドールも3年連続で獲得している。このことはセリエAが当時の潮流の中心にあったことを如実にあらわしている。
1982年にビアンコネーロのユニフォームに袖を通したプラティニは、ユベントスでのキャリアをふり返ったときに「たくさんあるが…」と前置きしたうえで、あえて一つ選ぶなら、と1984年の欧州選手権直後をあげている。
プラティニは大会5試合で9点を入れ得点王にかがやき、フランスの大会初制覇に多大な貢献をもたらす。意気揚々とユベントスにもどると「おかえり!」とチームメイトにバケツ一杯の水をぶっかけられたことを一番の思い出にあげている。
「チーム皆が同等だ」「格好つけるな」とチームメイトたちから釘を刺されたという。プラティニは「どんな大スターでもユーベでは関係ない」と解釈し、また「ユベントスにスターはいらない」ということも再認識させられた。その後チームに初の欧州制覇をチームにもたらしたことを考えると、この“思い出”が起因していると考えても不思議ではない。
プラティニの引退後、ユベントスの背番号10にふたたび価値を見出したのはロベルト・バッジョだ。もし、この1993年のバロンドーラーの加入がなければ今日のフィオレンティーナとの不仲はなかっただろうし、幾多のスター選手がユベントス移籍に躊躇(ちゅうちょ)しなかったはずだ。
「こいつは天才かもしれない」。
この言葉は、熱血漢でしられスタンドプレーを嫌い、走れる選手をなによりも好んだアントニオ・コンテのものである。バッジョがいた9.5番の位置よりも後方にいた“背番号8”は、走れなくとも天才的な閃(ひらめ)きをもった5歳年下のファンタジスタを褒めちぎっている。
イタリア最高のファンタジスタがチームを去ってからは、アレッサンドロ・デル・ピエロが絶対的なバンディエラとして君臨する。もし、この男がユベントスの背番号10を背負わなければ、ビアンコネーロの10番はこれほど特別にはならなかったはずだ。
19年間というキャリアのすべてをユベントスに捧げ、数々のタイトルをもたらしただけでなく、セリエBに降格してもチームに留まり、セリエB得点王にもなりセリエA復帰の原動力になっている。
ユベントスラストイヤーとなった2011-12年には2005年以来となるスクデット獲得に貢献し、惜しまれながらチームを去ったことを昨日のことのように覚えているユベンティーノも多いことだろう。この優勝から現在の4連覇が始まっている。
クラブは偉大なる功績に敬意をはらい背番号10を永久欠番にする案があったが、デル・ピエロ本人がこれを頑なに拒否。
「欠番にしないというアレッサンドロの行動を称賛すべきなのは間違いないね。彼は正しいことを言った。なぜなら、誰もユベントスの背番号10を着ることを夢に見られるようじゃなければいけないからだ」と盟友MFアンドレア・ピルロが語り、「ユーベの背番号10は素晴らしいもの」と締めくくっている。
その後1年間、背番号10を“寝かせ”迎えた2013年、プラティニ以来の外国人選手FWカルロス・テベスが背負うことになる。マンチェスターの地ですっかりトラブルメーカーとして有名になったアルゼンチン人に、当初「ふさわしくない」という声は少なくなかった。
そんな雑音をテベスはプレーでかき消した。
ウェストハム在籍時のようにコンスタントに先発でピッチに立てば、結果を残すことができることを証明する。欧州のタイトルに届かなくとも、加入1年目に19点、2年目には20得点を叩き込み、ボールを奪われると自軍の深い位置まで追いかけまわす闘志をユベンティーノは後世まで忘れないだろうし、CL FINALまで導き、ひさしぶりに夢を見させてくれたことも美しい思い出としてかたり継がれていくはずだ。
今シーズン開幕まで一ヶ月を切った現在でも未だ背番号10は決まってない。
プラティニとデル・ピエロは欧州制覇を、バッジョはUEFAカップ(現EL)をもたらしてくれた。また、テベスはあらたな価値を見出してくれた。ユベントスの背番号10は磁力にも似た力で、あらたなバンディエラとなれるジョカトーレを待っている。
著者/Juventus Journal 編集部 山口 努
コメント
自分もベラルディに期待しとく
インテリスタなのとキレ癖を差し引いても
これほどの将来性のある選手を見るのは久しぶりなんで
次は是非ともイタリア人を!
夢物語ですがベラルディに期待しています