コラム:故ヴィアリがユベントスに残していったアイデンティティ
著者:J-JOURNAL 編集部 山口 努
令和の世でも「サッカー雑誌」は、毎年夏に欧州の新シーズンを展望する特集企画を組んでいる。
筆者は学生時代、現在では休刊になっている『ワールドサッカーグラフィック』の熱烈な読者だった。
記憶に濃い1994/95シーズン開幕を間近。
筆者は、ジャンルカ・ヴィアリの言葉に胸を熱くさせられた。
「見ていてくれ。俺たちがミランを止めてみせる」
頭をスキンヘッドに剃り上げ、ベテランの域に入った元イタリア代表FWは力強く訴えていた。
アメリカでのワールドカップが終わった1994年の夏の終わりだった、と筆者は記憶している。
もし、現代のようなSNSがあれば「ワールドカップにイタリア代表にも選ばれなかった選手が…」と“袋叩き”にされていてもおかしくはないだろう。
それでもユベントスの背番号「9」はメディアに向け、強気な姿勢を崩さず“スクデット奪還”をユベンティーニに誓ってみせた。
あれから30年近く経過したため、ヴィアリの「コメント」は正確ではないかもしれない。
だが、あれだけ強烈で覚悟のあるキャプテンシーをみせたジョカトーレは、現在でも筆者の記憶にはない。
当時のカルチョはミラン全盛の時代。1991/92〜1993/94シーズンまでスクデット3連覇を成し遂げ、その強さはイタリア国内だけのものではなかった。
マルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトといった「オランダトリオ」が躍動した時代だ。
また、1993/94シーズンはオランダトリオなしでUEFAチャンピオンズリーグ(CL)を制覇するなど絶頂期にあった。
アメリカ・ワールドカップで神がかった活躍をみせた、ロベルト・バッジョ“ではない”ユベントスの選手が発したことを考えると、相当な覚悟を感じさせてくれる言葉だ。
都市では分からないが筆者が育った町では、バッジョを知っていてもヴィアリを知る人はほとんどいなかった。
1986年のメキシコ、1990年のイタリアでのワールドカップに出場していたとはいえ、コアなファンでなければ「ヴィアリ」の名を知らなかった印象が濃い。
今から30年近く前の「欧州のフットボール事情」は、そういう時代だった。
当時30歳のストライカーは並外れた得点力でユベントスを牽引し、ミシェル・プラティニがいたチーム以来となるスクデットを見事奪還してみせた。
この偉大なジョカトーレは、ビアンコネーリ在籍中にコッパ・イタリアも制し、CLも奪還。
そのすべてをやり遂げた1995/1996シーズン。その終わりとともにチームを去った。
翌シーズン、当時は珍しかったプレミアリーグへ移籍し、ロマン・アブラモヴィッチ政権前の“古豪”チェルシーにFAカップのタイトルをもたらしている。
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