コラム:ユベントスとデル・ピエロの軌跡(後編)
1897年にトリノの学生達が創設したユベントスは、120年という長い歴史を経て世界的なビッグクラブへと成長を遂げた。その偉大なクラブで10番というエースナンバーを背負い、ファンタジスタとして人々を魅了してきたその1人がアレッサンドロ・デル・ピエロだ。
約20年の歳月をユベントスと共に歩み続けたデル・ピエロが、クラブでの日々をイタリア『Sky Sport』の番組で明かしている。
クラブの象徴的な存在であり、ティフォージのアイドル。そして、栄光の「10番」を背負ってきたデル・ピエロ。そんな彼が、イタリアを代表するFIATグループ(自動車会社)の元名誉会長であり、ユベントスでも同様に名誉会長を務めたジョヴァンニ・アニェッリ氏と初めて会ったときのことを語っている。
ジョヴァンニ・アニェッリ氏は、アッヴォカート(弁護士)として周囲の人々に親しまれ、現在の会長アンドレア・アニェッリ氏の祖父である。
「彼に初めて会ったのは、UEFAカップ(1993-94シーズンの準々決勝)でカリアリに敗れ、敗退が決まったばかりのときだった。そのタイミングは機嫌が悪かったよ。僕らはパルマ戦を控えていて、合宿を行っていた。トレーニング中にアッヴォカートはピンクの紙切れを持ってきた。それは『La Gazzetta dello Sport』で、UEFAカップウィナーズカップ準々決勝でパルマがアヤックスを破った試合の記事だった。そこで彼はこう言ったんだ、“私が思うに、君たちはここに書かれている彼らよりも素晴らしい”と」
「まるで僕を揶揄しているようだった。その後は他の選手たちと話をし、結局僕とは話さなかったね。でもその次の日、試合で僕が3ゴール決めたら(パルマ戦:4−0で勝利)、ようやく僕のところにも電話が掛かってきたのさ」
bleacherreport.comデル・ピエロの話からは(前編はこちら)、ユベントスで過ごした20年間で多くの経験を積み、選手としても、一人の人間としても成長してきたことがうかがえる。このクラブで酸いも甘いも嚙み分けてきたことが、今の彼の礎を築いているのかもしれない。
ボニペルティが惚れ込み、18歳でユベントスの門を潜ってから様々なタイトルを獲得してきたこの背番号「10」。このクラブで成熟し、一人のリーダーとしてクラブを引っ張ってきた彼の姿を、ユベンティーニはよく知っているはずだ。
アレックス(デル・ピエロの愛称)のユベントス最後の日は、セリエBから昇格後、長年くすぶっていたクラブが復活の狼煙を上げたシーズンでもあった。かつてデル・ピエロと同じように主将を務めたアントニオ・コンテ監督に率いられ、6年ぶりのスクデット獲得に歓喜した年だ。
www.listal.com2011-12シーズンの最終節。この日のトリノは待ちわびたイタリア制覇に湧いた。それと同時にユベンティーニは、新たな冒険に旅立つカピターノを盛大なリスペクトを持って送り出している。そのリスペクトは、今後ユベントスがどれだけ歴史を積み重ねようと忘れ去られることはないだろう。
子どもの頃、デル・ピエロが憧れたビアンコネーロのレジェンド達と同じように、「アレッサンドロ・デル・ピエロ」という名がクラブの歴史に刻まれていることは紛れもない事実だ。
11月1日、ユベントスは120周年の節目を迎えた。1世紀を超えるその歴史の中で「705」もの試合に出場し「290」回もネットを揺らしたデル・ピエロは、「ユベントスで最も成功した選手」と言っても過言ではない。
crazier94.tumblr.com1974年11月9日にイタリアで生まれ、同じ誕生月のクラブで育ったバンディエラの存在は、ユベンティーノの心に永遠に刻み込まれているはずだ。
著者/Juventus Journal イタリア局 Norihito Miyagi
コメント
1996年11月26日(火) 国立競技場
彼のゴールでクラブ世界一になった事が一番の思い出です。来日時に成田でサインをもらい、試合で彼のゴールを生で見た。
ユヴェンティーノとして幸せな瞬間だった。
ありがとう、アレックス。
ラストゲームは感動しました。
ああいうお別れ方はデル・ピエロだから出来たのでしょうね