コラム:去りゆくイタリアの巨星
昨季の32節、ユベントスは20年ぶりにトリノダービーを落とした。先制点を挙げながらも逆転され、4連覇に“足踏み”した試合だ。
ユベントスの得点はMFアンドレア・ピルロのFKによるもので、この得点によりセリエA通算27点を記録し、シニシャ・ミハイロビッチがもつ歴代1位の28にあと1点にせまった瞬間だった。
「来季には、いや、今季中には歴代1位に…」こんな想いはユベンティーノだけの心情ではなかったはずだ。ピルロはイタリアのみならず世界中から愛された特異な選手であり、息を呑む技術をもちながらも試合後の醜い舌戦にはほとんど加わることのない紳士だった。
それを象徴するできごとがユベントス加入1年目に訪れたサンシーロで起こっている。ACミランのティフォージたちは、ピルロが練習のためにピッチに姿をあらわすとスタンディングオベーションで出迎え、背番号21もそれに応えた。
試合中でも愛情は感じられた。ピルロがMFサリー・ムンタリから厳しいタックルを受けるとミランのティフォージたちは、ムンタリに向けて大ブーイングを浴びせたのだ。旧知のライバル関係にありながら、このような愛にあふれたエピソードをもつジョカトーレは記憶にあるだろうか。
しかし、夏の終わりに開幕を迎える2015-16シーズンのセリエAにピルロの姿はない。
7月6日、ニューヨーク・シティへの入団が決まった。糸を引くようなロングパスや美しいミドルシュート、そして代名詞でもあるGK泣かせのFKを今季のセリエAの舞台でみることはない。
ふせぎたくてもふせげない美しい弧を描きながらネットに吸い込まれるFKは、いつしか“呪われたFK”としてGKからは忌み嫌われる存在となる。往年の名GKジャンルカ・パリュウカは「あの忌々しいFKを止めるのはいっそのこと壁を作らないほうがいい」と極論を唱えるほどだった。
幼いころから「天才少年」として知れわたっていたピルロは、16歳のとき地元ブレッシャでセリエAデビューを果たす。その後、青、赤、白のイタリアを代表する全チームの“たてじま”に袖をとおすまでの選手になる。
ピルロを語るとき、ACミラン時代にカルロ・アンチェロッティとの出会いがまずあげられる。だがその1年前、インテル時代にローンで出されていたブレッシャ時代に運命的な出会いを果たしている。
「僕の一番の幸運はロベルト・バッジョと一緒に練習できたこと。彼は天才で僕がモデルにした選手だった」と、憧れのレジェンドからFKの極意を学び、技術を吸収していったことをピルロは語っている。
ユベントスがバッジョを留めておけばピルロに出会うことはなく、ピルロの才能を見抜けなかったインテルがブレッシャにローンに出さなければバッジョに出会うことはなかった。また、ユベントスがアンチェロッティを解任しなければ、ミラン時代のピルロもなかったことを考えるとビアンコネーロと同氏は数奇な運命をたどっている。
だがここ数年、息を呑む技術に“陰り”をみせていた。衰えはどんな名選手も避けることのできない敵だ。ボールロストもパスミスも増えていたし、守備の面でスペースを空けてしまう場面もおおく見受けられた。リーグ戦でも欧州の舞台でもケアしなければいけないスペースに入らずに、失点を招いた場面も一度や二度ではなかった。
それでも、それすら忘れさせてくれる武器がピルロにはあり、現代サッカーの絶滅危惧種でもあるファンタジスタだったのは確かだ。とくに昨季の第13節のトリノ戦では後半アディショナルタイムに豪快なミドルシュートを突き刺し勝ち点3に貢献。絶大な存在感を示した顕著な例だろう。
ピルロはキャリアの集大成にユベントスをえらび、その場所で過ごした4シーズンでビアンコネーロの復活を遂げる4連覇に多大なる貢献を果たし、セリエAを去る。偉大なマエストロに多くの感謝と敬意、そして愛情をもってユベントスからニューヨークに贈り出したい。
Grazie mille.In bocca al lupo.
著者/Juventus Journal 編集部 山口 努
コメント
あぁ…本当にいなくなってしまうのだなぁ…
縁が巡り巡ってユーヴェの四連覇につながったわけですねぇ。
なかなか深いコラムでした。