コラム:ユベントスの新たな星になったバンディエラ
著者:J-JOURNAL 編集部 山口 努
アントニオ・コンテに率いられたビアンコネーリが、無敗でカンピオナートを突き進んだ2011/12シーズン。
筆者は完成したばかりのユベントス・スタジアム(現アリアンツ・スタジアム)で躍動するチームを自身の目で確認したかった。
初めての観戦は、小雪が舞いそうな寒い夜のカターニャ戦だった。
試合経過はすっかり忘れてしまったが、ホームなのにビアンコネーリではなく、ピンクのユニフォームに少し残念な気分になったことだけは鮮明に覚えている。
得点シーンはセットプレーから“先輩”ニコラ・レグロッターリエ氏をDFジョルジョ・キエッリーニが弾き飛ばし、ネットを揺らした。
そして、アンドレア・ピルロ氏がFKを直接決め、移籍後初ゴールを決めた試合だった。
その日、クラブ退団が噂され始めたアレッサンドロ・デル・ピエロ氏がピッチに立つことは最後までなかった。
翌週末にミラン対ユベントスの試合があったため、ミラノに向かう道中「Novara」の駅に電車は停車した。
森本貴幸がカターニャからノヴァーラに移籍したシーズンだったが、筆者が「Novara」の文字から連想したのは、日本人FWではなくジャンピエロ・ボニペルティ元会長だった。
この街で生まれ育った若者は、1906年に創設されたノヴァーラ・カルチョへの入団を夢みることはなかった。
余談ながらこのシーズンのノヴァーラ対ユベントスでは、スタンドにはボニペルティ元会長とミッシェル・プラティニ氏の姿があった。
雑誌の写真、ときおり少年だったアンドレア・アニェッリ現会長ら一族と試合観戦に訪れる姿しか記憶になかった。
ユベントスの会長職を辞したのが1990年。その後も名誉会長として、足繁(あししげ)く試合観戦に訪れたことを考えれば、心底ユベントスを愛した証拠だろう。
話を戻す。
ボニペルティ元会長は「ビアンコネリのカラーに憧れ、ユベントスの選手になりたいと思っていた」と語り、1946年18歳の青年は“イタリアの恋人”と愛されたクラブへ入団している。
仮に現在のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)が現役時代に開催されていれば、クラブの歴史は大きく変わっていた可能性は高い。
公式戦通算459試合の出場、クラブ歴代2位の通算179得点をマークし、5度のスクデット獲得、2回のコッパ・イタリア優勝に貢献。
とくにジョン・チャールズ氏やオマール・シボリ氏らレジェンドとともに史上最強と謳われたトリデンテは世界中から注目を集めたようだ。
それから33歳までユベントス一筋でキャリアを終えると、直後にフロント入り。幾多ものタイトル獲得に貢献している。
仲の良いイタリア人の友人に云わせれば「ボニペルティはユベントスの“マニュアル”を作った唯一無二の人」。
ユベンティーノの家に生まれた子どもは「ボニペルティの人間性をまず叩き込まれる」と最大級の賛辞をおくっている。
プラティニ氏を獲得しCL制覇を成し遂げ、類まれな“青眼(せいがん)”でクラブの栄光を助けた。
なかでも当時無名だったアレックス(デル・ピエロの愛称)の発掘は、フットボール史上に残る「伝説」になるだろう。
「自身が保持していたクラブ最多得点記録を45年ぶりに塗り替えたジョカトーレは、自身が発掘したジョカトーレ」。
こんなおとぎ話のような伝説など、どのクラブにも作れないはずだし、ユベントスのみのものになるだろう。
ビアンコネーリの名誉会長職に就いていたボニペルティ氏は現地時間6月18日、この世を去った。享年92歳。
名誉会長は生前、最後のインタビューで次のような言葉を残している。