コラム:過去にユベントスが移籍で得た逸材
2014-15シーズンのセリエAは6位ジェノア、7位サンプドリアを確保したジェノヴァ勢の躍進がめざましく、ミラノの2チームを欧州の舞台から追いやることに成功している。
ジェノアはセリエA設立当初の1890年代にリーグを席巻し、1924年を最後にスクデットから遠ざかっている古豪。一方のサンプドリアは1991年にスクデットを獲得、翌シーズンには欧州チャンピオンズカップ(CL:欧州チャンピオンズリーグの前身)では決勝戦に進出している。
サンプドリアにとっては最初で最後の黄金期に貢献したFWジャンルカ・ヴィアリは翌年、ユベントスに移籍する。このとき28歳。のちにユベントスに2度目の欧州制覇に貢献する主将はこのとき誕生する。
移籍当初こそスランプ、怪我の再発により日の目を見る機会を失っていた。たとえ活躍しても当時絶大な輝きをはなっていたFWロベルト・バッジョの影に埋もれてしまう。UEFAカップ(現EL)を獲得し、その年にバロンドールをも獲得するエースは、翌年のアメリカW杯の疲労、度重なる膝の手術などがかさなり、輝きを失っていく。
94-95シーズンが始まるとき、ヴィアリは「見ていてくれ、俺たちがミランを止めてみせる」と豪語する。
当時ACミランはリーグ3連覇中。FWマルコ・ファン・バステン、FWルート・フリット、MFフランク・ライカールトで形成されたオランダトリオがチームから去ったとはいえ、盤石なチームであることに変わりはなかった。事実、この年にCL準優勝を果たすほどの力があった。
94年、マルチェロ・リッピがチームに就任すると、技術よりも戦える選手を好み、ヴィアリを軸にしたチーム作りに着手する。怪我がちなバッジョは次第にポジションを新鋭FWアレッサンドロ・デル・ピエーロに譲るようになり、シーズンが終わるとチームに別れを告げた。
ヴィアリは有言実行を果たし、クラブのレジェンドMFミシェル・プラティニを擁した1986年以来となるスクデットを獲得している。ここからチームは黄金期として歩みはじめ、ヴィアリが32歳になったときにチーム2度目の欧州制覇に貢献。その後チェルシーに移籍する。主将の座はMFアントニオ・コンテに受け継がれるが、ヴィアリが去ってから今日までユベントスはビッグイヤーを掲げていない。
元サンプドリアのエースFWの加入によって、ユベントスは国内でも欧州でもあるべき場所に戻した。ヴィアリの移籍は成功例だが、デル・ピエーロの場合は状況が異なる。移籍当初の実力は未知数だった。
大げさに言えば、「誰?」であった。
この移籍は「鶴の一声」で加入が決まった。クラブ史上最多179得点を記録していたジャンピエロ・ボニペルティ会長は、パドヴァで1ゴールしか挙げられなかった19歳の才能を見逃さなかった。鳥の巣のようなヘアスタイルをした華奢(きゃしゃ)な青年がのちにチームの絶対的なバンディエラになり、自身の最多得点記録をも塗り替えられるとは、会長もこのとき夢にも思わなかったことだろう。
移籍の成否は、先見性、方向性、監督の手腕によるところが大きいのは昨季のジェノヴァ勢も示したが、ユベントスとは“目線”が異なる。今季はリーグ5連覇と3度目の欧州制覇がイタリアの盟主の目標だ。
CL最多優勝記録はレアル・マドリーの10回はよく知られている一方、最多準優勝記録はあまり知られていない。この名誉でありながら不名誉な記録をもつユベントスは6月6日にベルリンの地で5回から6回に更新した。
先日、躍進に貢献したFWカルロス・テベスはチームを去った。このアルゼンチンFWがビアンコネーロのユニフォームを身にまとったのは29歳である。22歳のMFポール・ポグバが欧州の強豪クラブから触手があるように、昨今の移籍は若い選手の獲得が潮流だ。
古くから移籍稼業に定評があるユベントスはここまで、適正な価格で新戦力の獲得に成功している。昨今の移籍市場をみると狂気の沙汰ともいえる金額が飛びかうのが現状だが、その流れをくつがえす意味でもユベントスの移籍には期するものがある。
著者/Juventus Journal 編集部 山口 努
コメント
ゴール製造機ヴィアリは、未だに自分の中では世界最高のCF
どんなボール、どんな体勢でもゴールを決めた
また彼のような選手が、ユーベに現れてほしい
なんとなくだが
ボニペルティ→デルピエロ
シボリ→テベス
プラティニ→バッジョ
なイメージ